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失意の中で見つけた陸上競技 パラリンピックで最も金メダルを確実視されている男・佐藤友祈の軌跡

2020/3/13 9:54

東京で金メダルが期待される佐藤友祈選手(写真:ロイター アフロ)

リオ2016パラリンピックで初出場ながら銀メダル2個を獲得した気鋭のアスリートをご存じだろうか。陸上競技・車いすT52クラスの佐藤友祈。2017年と2019年の世界パラ陸上競技選手権大会で400mと1500mの2種目を制しており、両種目の世界記録を保持する絶対王者だ。東京2020パラリンピックで日本代表選手団の金メダルの最有力候補といわれる30歳は、"まっすぐ"な性格が最大の武器。「世界記録で金メダル」という目標に向かって一直線に進む佐藤の軌跡に迫る。

どちらかというと文化系 模索の続いた少年時代

サッカーの盛んな地・静岡県藤枝市で生まれた。佐藤家の初孫とあってたくさんの愛情を注がれて育ったという。怖いもの知らずで、何にでもチャレンジする好奇心旺盛な子。そんな少年がまず始めたのは、父の隆さんが高校時代にやっていたレスリングだった。コーチでもあった父に連れられ、隣町にある「焼津ジュニアレスリングスクール」に通い、楽しみながら基礎体力を身に付けた。

「コーチがよく遊んでくれたし、夏の暑い日にはアイスをごちそうしてくれたりもして。すごく喜んで通っていました」(母)

中学に入ってからは陸上部に所属したがのめり込めず、焼津ジュニアに度々足を運んだ。しかし、レスリングの才能を開花させたのは佐藤ではなく、彼が小2のとき一緒にレスリングを始めた4つ下の妹・喜歌(はるか)さんだった。小学校高学年から頭角を現し、後に自衛隊でオリンピックを目指すレベルで戦っていた。

そんな妹を横目にサッカーも経験した佐藤だったが、実際はどちらかというと文化系だった。小学校では担任に絵を褒められて絵画教室に通い、合唱団ではボーイソプラノを担当した。その後、囲碁の教室にも通って段位を保有。地元工業高校主催のロボットコンテストに参加し賞ももらった。

「家族で夢中になるものを探しましたね。友祈は運動が得意ではありませんでしたが、感心するくらい手先が器用でした」(父)

模索は続く。ジャニーズに憧れ、高校卒業後に上京。アルバイトで食いつないだが、両親は彼が東京のどこで何をしているのか知らなかった。そんな折、両親の元に突然、病院から連絡が入る。高熱で意識を失った息子の下半身と左腕がまひしているというのだ。佐藤が21歳のときだった。父が東京まで佐藤を迎えに行き、母は静岡で2人を待った。戻ってきた父が自分より大きい身長183㎝の息子を背負い、バスから降りてくる姿は今でも母の目に焼き付いている。

21歳で脊髄炎を発症 失意の中で見つけた「青春」

後にまひの原因が脊髄炎と分かり、障害者手帳を取得できたのは、23歳になる直前だった。それを機に医療現場にある中古の車いすからオーダーメイドの車いすに乗り換えた佐藤の世界はどんどん広がっていく。テレビでロンドン2012パラリンピックを見たことをきっかけに陸上競技を始めようと心に誓うと、持ち前の明るさを少しずつ取り戻していった。

そこに至るまでの約2年を、メディアでは度々「引きこもりがちだった」と報道される。しかし、父は「いくつかの奇跡や出会いのおかげで道が開けた」と振り返る。実際に、車いすで外出することはあった。そして、気軽に訪れた近所の障害者生活支援センターで車いすで生きていく心得を知り、静岡で競技用車いす「レーサー」に乗って活動する選手とも出会えた。確かに、佐藤には突然障害を負ったことによる不安や葛藤はあったかもしれない。ただ、彼には行動力があり、それが彼の道を切り開いたのだ。

60㎏台だった体重は多いときで90㎏台にまで増えたが、2012年に競技を始めてから自然と落ちていった。佐藤を魅了したのは、スピードの出るレーサーで風を切って走る爽快感、練習時に同じコースを走る一般ランナーからかけてもらえる嬉しい言葉、初めて出場したハーフマラソンで感じた高まる胸の鼓動......レーサーに乗ることで変化した日々を佐藤は「青春」と表現した。

2018年アジアパラ陸上400mに出場した佐藤(写真:長田洋平 アフロスポーツ)

今ではトラックを主戦場とするが、練習はもっぱらロードだった。両親に送迎してもらい、交通量の少ない山道に通い、道行く車から目立つようにレーサーに旗やライトを括り付けて走り込んだ。自宅から車で40分程度の距離にある大井川のマラソンコースでも練習を積んだ。練習場所探しには苦労した。藤枝の陸上競技場は車いすではトラックが傷つくという理由などで利用できなかったからだ。

岡山に拠点を移し、リオ大会へ出場を果たすも

リオ大会を目指すことは、ロンドン大会をテレビで見たときに決めていた。そんな中、記録も順調に伸びていた。自身に可能性を感じていたのかもしれない。しかし「今の練習では、リオパラリンピックに間に合わない」と自己流の練習に限界を感じ始めていたのか、競技歴1年半の佐藤は故郷を離れ、練習環境の充実している岡山に拠点を移すことを決意。2014年5月からパラリンピアンの松永仁志氏に師事し、卒業訓練校退所後に障害者雇用で入社した岡山市のグロップサンセリテでは、松永が監督を務めるパラ陸上部「WORLD-AC」で練習に励んだ。

「佐藤は気持ちで走るタイプ。彼がヒーローであるストーリーとステージを用意し、盛り立てていこうと思いました」(松永)

岡山には存分に練習できるトラックがあり、指導者、競い合える仲間もいた。着実に成長の階段を上った佐藤は、2015年のIPC陸上競技世界選手権大会(ドーハ)で400mで優勝、1500mで3位になり、世界にその名を轟かせた。その後は中間からの加速力アップに加え、課題だったスタート練習にも取り組んだ。そして、ついにたどり着いたリオパラリンピックについて「自分の中で高揚感を覚えた」と感慨深く話した。しかし、400m、1500mでは決勝でライバルのレイモンド・マーティン(アメリカ)に敗れている。報道陣の前では「悔いはない」と話しつつも、内心は悔しい気持ちをたぎらせていたのだった。

リオパラリンピック400m決勝。レイモンド(右)に敗れ銀メダルだった(写真:ロイター アフロ)

「東京パラリンピックでは他を追随させない走りをする」。そう誓った佐藤は、再び岡山へ戻り、トレーニングを再開した。

「東京」への苦しい道のりと思い

「夢は叶えるもの」が座右の銘だ。東京パラリンピックという目標に向かって愚直なまでにトレーニング中心の生活を送る。

2018年は2種目で世界記録を更新した。後の妻である麻由子さんによる食事内容の管理と、運動量を増やしたことでリオ時に78㎏だった体重は72㎏まで絞られた。肉体改良はスタートダッシュを改善させ、手首の負担を軽減させる目的もあった。

2018年関東パラ陸上競技選手権大会では2種目を同日に世界記録更新した(写真:YUTAKA アフロスポーツ)

しかし、順調に見えた道のりも一転、2019年は苦しいシーズンに。大幅な世界記録更新を狙って体重をさらに2㎏落としたが、体形が変わったことでフォームが崩れてしまったのだ。車いすが沈み込んでしまい記録の出しにくいタータン(走路)、ハンドリム(外側の車輪)が滑りやすい雨天候など、条件にも恵まれなかった。それでも佐藤はただ一つのことを見据えてトレーニングを続け、世界選手権で二連覇を達成した。

「東京パラリンピックの金メダルを両親や妻の首にかけたいという思いは強いです」

新人から金メダル候補となり、短期間で環境、立場、家族構成が変化した。「それでも金メダルを取りたいという気持ちだけはブレないんですよね」。彼がふと口にしたこの言葉こそ、佐藤友祈の真骨頂だ。

(文・瀬長あすか)

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