13年の時を経て、五輪の大舞台へ 39歳の大エース・上野由岐子は恩師に金メダルを届けられるか

2021/7/14 9:30

西村尚己 アフロスポーツ

2008年北京大会での「魂の413球」から13年。ソフトボール日本代表の大エース・上野由岐子(ビックカメラ高崎)が五輪に戻ってくる。「コロナで1年延期が決まった時、最初は『あと1年頑張らなきゃいけないのか』と思ったけど、『むしろもう1年やらせてもらえるのは感謝かな』と。時間をもらえてこれだけのパフォーマンスができたというのを見せたい」と語っていた彼女は自身3度目となる世界の舞台で再び金メダルを手にできるのか。五輪の初戦、オーストラリア戦翌日の7月22日に39歳になる大エースの人物像に迫った。

上野のこれまでの歩み

「最近の上野を見ていると、数年ぶりにスピードとキレのあるボールを投げているし、気持ちも乗っている。今すぐにでも試合ができる感じです」
東京五輪代表メンバー15人が決定した今年3月、宇津木麗華ヘッドコーチ(HC)は愛弟子・上野由岐子の好調ぶりに目を細めた。
「まあ感覚は悪くないですけど、いくらいいボールを投げていてもバッターが立つと変わる。ゲーム感をしっかり作っていきたいですね」と上野本人は謙遜していたが、コロナ禍で自身を見つめ直す時間を持てたことは、間違いなく彼女にとってプラスになっているようだ。
そもそも上野由岐子がソフトボール選手として頭角を現したのは中学時代。故郷・福岡市の柏原中学校に通っていた97年、全国中学校大会で優勝。存在が広く知られるようになった。

柏原中学校時代の上野 (本人提供)

実はこの決勝で、上野は相手ピッチャーの球をなかなか打てないことに苛立ち、思わずヘルメットをグランドに投げつけるという行動に出てしまった。その瞬間を目の当たりにした父から「道具に当たるとは何事か」と一喝され、深く反省。気持ちを切り替えて挑んだ次の打席でホームランを放ち、チームを日本一に導いた。「勝負がかかった時こそ礼儀正しく振る舞うことの大切さ」を学べたことは、彼女のその後の人生の大きな糧になったという。
九州女子(現福岡大学附属若葉)高校時代には99年夏の世界ジュニア選手権で優勝。2000年シドニー五輪の有望選手という見方もされ始めたが、直後に腰椎の横突起骨折の重傷を負い、88日間もの入院を余儀なくされた。この大ケガで上野は「自分にはソフトしかない」という思いを強め、懸命のリハビリで復活。2001年には日立高崎(15年1月からビックカメラ高崎)に入社し、剛腕投手として存在感を高めていく。当時、日本のソフト界には時速110kmを投げるピッチャーは皆無に近かったが、彼女は新人時代からその領域をいとも簡単にクリアしていた。
「自分は速いボールを投げられちゃった感じ(笑)。いいボールを投げたいと努力する中で、だんだんスピードが上がってきました」と本人はあっけらかんと言う。ただ、それだけの天賦の才があっても、すぐに日本代表エースとして五輪で大活躍できるわけではない。2000年代前半はアトランタ、シドニー、アテネと3大会連続でオリンピックに出場し、「女大魔神」の異名を取った高山樹里ら名投手が君臨していたため、若き上野は2004年アテネ五輪に初参戦を果たしたものの、大黒柱になりきれなかった。

2004年アテネ五輪3位決定戦(アフロスポーツ)

「自分の結果を出すことが何よりのアピールだ」という尖った考えが災いし、開幕のオーストラリア戦で4回3失点KOされたばかりか、大会中に胃腸炎にかかり、最悪の状態に陥った。日本の銅メダル獲得に全くと言っていいほど貢献できず、ショックに打ちひしがれたという。

宇津木麗華HCとの絆

この挫折を乗り越えるには、2008年北京五輪で成功を収めるしかない。そこで誰よりも親身になってくれたのが、恩師の宇津木麗華HCだ。88年に中国から来日し、95年に日本国籍を取得して日本代表の主砲として活躍したレジェンドはアテネを機に現役を引退。2004年から日立高崎から移行した日立&ルネサス高崎で指揮を執っていた。「アテネで日本が金メダルを逃した最大の要因はピッチャー。もっとしっかりした人材がいなければ、日本は戦えない」と考えた宇津木麗華HCは上野を世界一のピッチャーに育てるべく、さまざまなアプローチを開始。2005年には2人でアメリカでの武者修行に赴いた。
迎えた現地での初練習。ボールを投げようとした上野は「あなたは今、投げる気がないでしょう」と現地のピッチングコーチに制され、目が点になった。自身のソフトに対する姿勢を改めて問われたのである。
「若い頃の自分は"自己チュー"なところがあり、自分がうまくなるために必死で周りが見えていなかった。でもチームへの感謝や責任を感じながらプレーしなければ意味がない。アメリカ人コーチはそのことを言いたかったんだと思います」

上野と宇津木麗華HC(YUTAKA アフロスポーツ)

しみじみ語る上野を、宇津木麗華HCは温かい目で見守っていた。アスリートにとって最も重要な人間力を高めなければ、北京での金メダルはない。それを指揮官は伝えたかったのだろう。
上野はいい意味で原点回帰して帰国。そこから日本リーグで快進撃を見せるようになる。「配球の妙」を宇津木麗華HCから指導されたことも投球の幅を広げるのに役立った。
劇的な進化が北京大会での大成功につながる。上野は2日間で行われた準決勝・アメリカ戦、決勝進出を決めるオーストラリア戦、決勝・アメリカ戦の3試合を1人で投げ切り、日本悲願の金メダル獲得の原動力となる。「魂の413球」は日本国民を大いに感動させた。

2008年北京五輪 決勝戦(アフロ)

「この先、投げられることができなくても後悔しない、肩が壊れても、ソフトボール人生が終わってもいいというくらい、全てを賭けてマウンドに立ちました」と鬼気迫る彼女を、遠く日本から鼓舞し続けたのも宇津木麗華HCだった。課題に直面し、迷いが生じるたびに背中を押してくれた恩師の存在があってこそ、大エースは光り輝くパフォーマンスを見せられたのである。
北京大会を最後にソフトボールが五輪競技から外れ、日本代表チームは日の当たる舞台から遠ざかった。彼女自身も燃え尽き症候群に近い状態になり、日本代表を辞退した時期もあった。が、宇津木麗華HCが2011年3月に日本代表監督に就任したことで、上野は代表に復帰。2012・2014年世界選手権2連覇を果たす。さらにソフトボールが東京五輪の正式種目に認められ、宇津木麗華HCが2度目の代表指揮官に就任した2016年からは「より自分がやらないといけない」という自覚を強めた。

2017年日米対抗ソフトボールでの宇津木麗華HC(松尾 アフロスポーツ)

「麗華監督は親でも親戚でもないのに、自分に尽くしてくれる。自分のことを一番に考えてくれるんです。麗華監督と出会っていなかったら、ここまでソフトボールを続けることもなかった。だからこそ、恩返ししたい。熱い思いに応えたいんです」と上野自身も事あるごとに感謝の言葉を口にしている。

上野の素顔

北京の時には26歳だったエースも30代。心境の変化も少なからずあったのだろう。30歳になった時に母から「もっと大人の対応ができる人間になりなさい」と言われたことも大きかったようだが、老若男女から送られるファンレターの返事をできるだけ直筆で書いたり、妹に誕生した息子2人と笑顔で触れ合ったりなど、女性らしい気配りや立ち振る舞いも増えてきたという。
ビックカメラと日本代表でバッテリーを組む我妻(あがつま)悠香も「上野さんは一回り下の私の意見を聞いてくれて、的確にアドバイスしてくれる。料理上手で自宅で鍋を振る舞ってくれたり、牛乳寒天を作って持ってきてくれたりと本当に面倒見のいいお姉さんです」と嬉しそうに話したことがあった。そうやって周りのことを考えながら行動できる今こそが、上野の全盛期なのかもしれない。

東京五輪に向けて

アラフォーになり、肉体的に20代の頃より衰えがあるのは否めない。2019年4月には下顎を骨折し、約1カ月の入院を強いられ、体重が5キロも落ちるアクシデントにも直面。新型コロナウイルスが猛威を振るい始めた1年前に宇津木麗華HCが「上野は正直、あんまり調子がよくない。東京五輪の開幕戦で先発投手に指名するかどうかは分からないですね」と発言するなど、不安要素も少なからずあった。
上野は苦境にあえいでいたからこそ、東京五輪の1年延期を前向きに捉えられたのだろう。試合や代表合宿が長期間なかったこともあり、ひたすら練習に打ち込み、自身のスキルアップに努める時間を持てた。

2020日本女子ソフトボールリーグ(西村尚己 アフロスポーツ)

自宅でYouTubeを見たり、料理をしたり、自転車に乗って出かけたりとやりたいことを自由にやったことも幸いし、心身ともにフレッシュな状態で今を迎えることができたのだ。
日本代表にしても、上野と並ぶ柱に成長した藤田倭(ビックカメラ高崎)に加え、20歳の後藤希友(トヨタ自動車)が滑り込みでメンバー入り。若い力も借りながら、世界と伍して戦える投手陣が揃った。
「今の日本のピッチャー陣を考えると相手の打撃をゼロで抑えるのは難しい。点を取らなければ、金メダルには手が届かないのかな。でもアメリカとは実力的に互角。決して勝てない相手じゃないと思います」
絶対的エースは自信をのぞかせる。彼女には北京大会の頃とは違ったピッチングの深みと多彩さを示して、2度目の頂点に立ってほしい。それが最大の恩人・宇津木麗華HCへの何よりの恩返しになるのだから......。

画像制作:Yahoo! JAPAN

(文・元川悦子)