死闘制し得た五輪への切符 阿部一二三、ライバルとの2年半

2021/7/12 10:00

(写真:西村尚己 アフロスポーツ)

2019年世界選手権東京大会と、グランドスラム大阪を経て、20年2月のグランドスラム2大会後に代表選手が内定した柔道。その中で唯一代表決定ができなかった男子66kg級は、新型コロナウイルス感染拡大の中、無観客で異例のワンマッチ代表決定戦が行われた。
19年世界王者の丸山城志郎と17年、18年世界王者の阿部一二三の対決。その24分間の死闘を制したのは、23歳の阿部だった。若くして頭角を現し、東京五輪の金メダル候補と期待された阿部の道のりには、4歳年上のライバル・丸山城志郎との、長く苦しい戦いがあった。

シニアクラスで頭角を現し、五輪が目標に

中学時代から「将来の金メダル候補」と期待されていた阿部が、シニアクラスで頭角を現したのは神港学園神港高校2年の14年のことだった。11月の講道館杯で史上最年少優勝を果たすと、その勢いのまま12月のIJF(国際柔道連盟)柔道ワールドツアー、グランドスラム東京でも優勝したのだ。
その準決勝は12年ロンドン五輪3位で、世界選手権3連覇中の海老沼匡との対戦。阿部にとっては「世界チャンピオンの強さを経験できたらいいなと思っていた」という戦いだった。
阿部は開始30秒で有効を取られ、その直後にも指導を出されて劣勢になった。しかし、「最初に組んだ時は『すごい強いな』と感じて。それで前半は様子を見て相手につきあってしまったので有効を取られた。でも後半に入った時にこのままでは勝てないなと思い、自分のいいところでもある前に出る柔道をやったら相手がすごく嫌がったというか、圧力がかかり、それが技ありにつながった」と振り返るように、4分14秒に大内刈りで技ありを奪い、海老沼を下す金星を挙げた。

14年グランドスラム東京で海老沼(左)を下した阿部(右)(写真:YUTAKA アフロスポーツ)

そして「決勝で負けた世界ジュニアとは違い、今日は相手の組み手や動き、技がよく見えた」と話すゴラン・ポラック(イスラエル)との決勝では、1分42秒に有効を奪うと、その後も攻め続けて付け入る隙も与えず、シニア国際大会初優勝を果たした。
「東京五輪ではもちろん金メダルを狙うが、リオデジャネイロ五輪も近づいてきたので優勝を狙ってみたい」と、新たな目標ができた阿部を、井上康生監督も「プレッシャーを感じるようになってどう成長していくかが問題。伸ばさなければいけないところはあるが、大きな可能性を持っているのは事実」と評価した。
だが、対戦相手にも研究され始め、15年の講道館杯では3位。その結果、グランドスラム東京や翌年冬のヨーロッパ遠征メンバーには選ばれず、、リオデジャネイロ五輪への道は遠ざかった。
それでも「自分の存在だけはアピールしておきたい」と臨んだ16年4月の体重別選手権では、準決勝で海老沼に一本勝ち、決勝は前年の講道館杯で敗れた丸山城志郎をGS(ゴールデンスコア、延長戦の方式)で突き放して優勝。五輪代表はそれまでの実績が考慮され、準決勝で阿部が一本勝ちした海老沼が選ばれた。

初出場の世界選手権で優勝した「進化」

そこからの阿部の進化は目覚ましかった。グランドスラムは7月のチュメニ大会と12月の東京大会で優勝すると、年が明けた17年は強豪が集まる2月のパリ大会で優勝。世界選手権最終選考会だった4月の選抜体重別選手権ではオール一本勝ちで優勝と、一気に進化する姿を見せた。
小さい頃から父親の指導で身に付けた体幹の強さを生かした、得意の投げ技だけではなく、日体大へ進学して高校時代より練習量が増えた中で、寝技もみっちりしごかれて進化させた。
その成果を見せたのが、初出場の世界選手権だった。17年1月1日からルールが変更され、男子の試合時間は5分から4分に短縮されたほか、有効が廃止されてポイントになるのは技ありと一本のみ。指導以外のポイント差がなければGSに入るという一本を重視する改正だった。そのルールで初めて行われる世界選手権で阿部は、3戦目こそ技あり3回で優勢勝ちとなったが、それ以外の試合はすべて一本勝ち。投げ技を警戒する相手にはその対策として磨いた足技を出してポイントを奪う冴えも見せた。特に準決勝の"袈裟固"での一本勝ちは、日体大入り後の寝技強化の成果だった。

17年世界選手権・準決勝でバジャ・マルグベラシビリと戦う阿部(左)(写真:アフロスポーツ)

それでも「今回は80%。研究されてもその上をいく選手にならなければいけない」と話した。若くして研究される苦労も味わった経験からの思いだ。スピードもタイミングも抜群という素質に加え、高い意識も持ち始めたからこそ、周囲から「東京まで突っ走ってくれる」と期待された。そして18年世界選手権連覇で、その期待はさらに大きくなっていった。

立ちはだかる丸山城志郎という壁

だが、東京五輪へ向け、阿部の前には丸山が立ちはだかってきた。丸山は18年11月のグランドスラム大阪の決勝で、阿部をGSで巴投げの技ありで破ると、その後のワールドマスターズはオール一本勝ちで優勝。翌年のグランドスラム・デュッセルドルフ大会でも強敵を破って優勝と勢いをつけていた。対して阿部はグランドスラムパリ大会で初戦敗退と、予想外の結果に終わっていた。
19年世界選手権東京大会は、優勝すれば五輪代表に一歩前進できる大会だった。その最終選考会である4月の体重別選手権では、決勝で丸山に指導2を出させて追い込みながらも(指導3で反則負け)、GSの6分27秒に浮技で技ありを取られて敗れた。
それでも、2階級は2名まで出場できる枠で世界選手権代表になり、チャンスは残った。

19年4月の体重別選手権で優勝した丸山(左)と準優勝の阿部(右)(写真:YUTAKA アフロスポーツ)

そして臨んだ8月26日の世界選手権。6月の代表合宿で左足首靭帯を痛めて、万全とは言えない状態だった。それでも阿部はキレのある動きで躍動感あふれる柔道を見せ、初戦の2回戦で「きつい組み合わせ」とみていたアルベルト・ガイテロ=マルティン(スペイン)に開始34秒の背負い投げで一本勝ち。3回戦では相手の頭が右目付近に当たって腫れるアクシデントはあったものの、準々決勝までの3試合はすべて一本勝ちと、不安を見せない柔道をした。
丸山との対戦となった準決勝では最初から積極的に攻め、開始1分13秒に阿部の投げで丸山が左足を負傷。その後も1分48秒で丸山が指導2になると、3分48秒には阿部の投げに主審が技ありを宣言して決着がついたかと思えた。だがそれが取り消されると混戦になりGS入り。そして延長3分46秒には、巴投げで崩された後に浮き腰で技ありを決められて敗戦した。
「巴投げを出してくるのはわかっているが、いつも引き込まれて投げられている。最初はガンガン攻めたが、GSに入ってから様子を見てしまったのがいけなかった」と反省。それでも3位決定戦では勝利し、まだあきらめない姿勢をアピールした。
その強い気持ちが形になって表れたのは、3カ月後のグランドスラム大阪だった。世界選手権で優勝した丸山がここで優勝すれば代表内定となる、阿部にとっては崖っぷちの大会。決勝で対戦した丸山をGSに入ってから支釣込足の技ありで破り、代表内定を阻止したのだ。

講道館で長い競り合いにピリオドを打ち、五輪代表へ

その二人の最後の決戦の場となったのが、昨年12月13日の講道館でのワンマッチだった。無観客で静寂が支配する会場。激しい組み手争いの中で互いに投げ技を出し合う前半は、阿部が少し押し気味で丸山に指導が出た。だが丸山も冷静に対応し、あっという間に試合時間の4分間は終了。そのままGSに入った。

日本代表決定戦で丸山(左)との決戦が行われた(写真:千葉 格 アフロ)

延長1分50秒に丸山は指導を受けて追い込まれたが、丸山は得意な巴投げを出して阿部を揺さぶり、互いに十分組み合えずに決め切れない状況が続いた。8分35秒に阿部の左手の治療で畳を離れて互いに息を整えるも、決定打は出なかった。そして11分57秒に阿部が2度目の偽装攻撃で指導2となり、条件は並んだ。

フィナーレは、試合時間が合計24分になった時だった。阿部が出した大内刈りを丸山が小外刈りで耐えようとしたが、最後は阿部が身体を預けて技ありを奪取。18年12月から続いた、長い競り合いにピリオドを打った。
「気持ちを切らさず自分を信じて、自分の柔道を貫き通した結果だと思います」と言う阿部は、丸山の存在を「丸山選手がいなかったら僕自身ここまで強くなれなかったと思うし、本当のライバルという存在。本当に丸山選手という存在は大きかったなと思います」と話した。
この苦しさを経験したからこそ進める大舞台。阿部にとって丸山との戦いは自身の精神を成長させ、世界一への自信をより強大にさせるものになった。

画像制作:Yahoo! JAPAN

(文・折山淑美)