パラ陸上・伊藤智也「きのうの自分を、超えていく」

2021/3/3 13:55

NHKパラリンピック放送リポーターの後藤佑季です。

「おじさんの星として頑張らなあかんな!」そう語るのはT52(車いす)クラスの伊藤智也選手、57歳。2019年の世界選手権では、銀メダル1つ、銅メダル2つを獲得し、東京パラリンピックの代表に内定しています。
冒頭の写真、左側は世界選手権での伊藤選手の雄姿です。

パラリンピックは2004年のアテネ大会から出場し、北京大会では2つの金メダル、ロンドン大会では3つの銀メダルを獲得。ロンドン大会後に競技から引退していたのですが、2017年夏に復帰しました。

激動の1年に、何を思うのか―。

東京などに二度目の緊急事態宣言が実施された1月8日、伊藤選手にお話を伺うことができました。

■落ち着いて迎えた新年

まず質問したのは、どんな気持ちで2021年を迎えたのかということ。

伊藤選手「自分のやらなければならないことを、どんなスケジュールでこなすかははっきり決まってましたんで、迷いもなく、落ち着いた新年でしたかね」

取材は1月8日に、リモートで行いました。

―2020年も「大会が1年延期」の発表があった直後にお話を伺いました。「落ち着いて、状況を受け止めて今やらないといけないことを淡々とやるだけ」と話していましたが、その時と心持ちの違いなどありますか?

伊藤選手「全く同じ気持ちですかね。パラリンピックに向けてのトレーニングは全力で、余すことなく力を毎日毎日注ぎ込むところは全然変わってないんです。
ただ、状況を考えると、そればかりというよりは『何があっても、次に向かっていける気持ちをどこかに持っておかないと』とは思いますね。仮に、もし仮に、パラリンピックがなくなったとしても気持ちが切れないように、じゃあ(次の2024年)パリでひとつ花火を打ち上げたるか!というくらいの気持ちを持っておいた方がいいだろうなとは思っています」

現在57歳の伊藤選手の口から、「パリ大会」という言葉が出てきたことにとても驚きました。
もちろん、何歳になってもどんなチャレンジでも目指すことはできると思うのですが、何が伊藤選手をそんなに頑張らせるのだろうかと、不思議に思ってお聞きしました。

伊藤選手「他の選手と考え方が違うと言われても仕方ない部分があるかもしれないですね(笑)。僕は、(陸上を)"チームでやっている"と思ってるんです。僕は、ただ走るという役割を預かっただけで、所属企業は『私(伊藤)が毎日きちんとした生活ができるように』と競技以外の所で僕をサポートしてくれて。競技用車いすの提供を受けているメーカーは、『いかに伊藤智也を速く走らせるか』というところを日々追及している。
みんながみんな、一切の妥協はないわけです。僕はただ、そのチームの"たった一人"にすぎなくて、一人ひとり場面によってメインになる人が違うんです。ですから、僕が"メイン"になった時に―それはパラリンピックだと思いますけど―慌てなくてもいいように、常に自分と対峙していかないとチームに迷惑をかける、と思っています。みんなが頑張っているのに、僕がへこむわけにいきませんからね」

自宅での、車いすレーサーを使ったトレーニング 2020年3月撮影(写真提供:伊藤智也選手)

―チームだから頑張れるということでしょうか?

伊藤選手「そうですね。チームのみんなが頑張っているから自分だけ手を抜くわけにはいかない、というのは大いにあります。
そういった意味ではね、後藤さんも僕のチームなんですよ。この国みんなで闘おうとしているわけですから、全員が、このパラリンピックを盛り上げようというワンチームですよね。僕は後藤さんからインタビューされるたびに元気や勇気をもらう。でも、後藤さんに恩返しをするためにやるのではなくて、一緒に戦って、その成績をもってまたインタビューされたい、一緒に喜びたい。こういうスタンスのチームなんですよね。だから後藤さんも同じチームですよ!」

私のような駆け出しの取材者にも「チームの一員」と言っていただき、すごく光栄に思うと同時に、その心遣いにぐっと引き付けられました。
それが、伊藤選手の「チームを強くする力」ではないかと思いました。

■"暗い"1年だった、でもつかんだものもある

―2020年は、伊藤選手にとってどんな1年でしたか?

伊藤選手「一言で言うなら『暗い1年』でした。苦しかった、うん、ほんとに苦しかったですよ。出口が見えなかったことが大変でした。いつになったら終わるとわかっていれば、辛抱のしがいもあるんですけど、今日になってもどんどん悪化している状況下の中で、まだ辛抱か...と思うと...」

伊藤選手の病気は、免疫系の難病のため、コロナに感染することは死に直結します。そのため、かなり早い時期から半年以上もの間、ほとんど外出をしなかったそうです。
また、感染リスクを徹底して避けるために、9月以降再開された試合にも参加しないという決断をしました。

「先が見通せない」ということほど、東京大会があると信じて日々のトレーニングに励むアスリートたちにとって、つらいものはないはず。

でも、伊藤選手は、「2020年で慣れました」と口にします。

伊藤選手「去年(2020年)の夏の時期に、パラリンピックのシミュレーションを完璧にできました。
57歳で、経験だけはありますから(笑)、パラリンピックの雰囲気も分かってるし、競技スケジュールも出てますんで、このくらいの間隔で試合があったらどれぐらい疲れるのか、そのときにマッサージを入れた方がいいのか入れない方がいいのか、というテストもできました。仮に、完璧な状態で東京大会があれば、今までよりだいぶ強い"伊藤智也"で迎えられるかなと思いますね。
具体的には、僕の場合は午前が400mの予選、午後が決勝。次の日が1500mの予選、その次の日が1500mの決勝です。10日前から体つくりを始めて、何もせずに自分の感性でそこに合わせていく方法と、ちょっと疲れたときに、疲れたところをマッサージしたらどうなるか、という比較をしたりね。結局、マッサージすると体が緩みすぎて逆に1500mは戦えないということがわかって。そういう経験値を、2020年は何度も何度も積めたので、ものすごくプラスではあると思います」

2019年10月、伊藤選手の地元三重の競技場にて 上半身の力で車輪を回し、タータンをとらえる

そのほかにも、タータンの硬さに合わせて、車いすのこぎ方を変えるというチャレンジも行ったと言います。
陸上のトラックのタータンはゴム製なので、気温の変化によって表面の硬さも変わってきます。
選手はよく「柔らかい」、「硬い」と口にしますが、同じ競技場でも、昼は太陽が照っているのでゴムが柔らかく、夜は冷えて硬くなるのです。

1年半かけて、こぎ方を変えるだけで(硬くても柔らかくても)両方同じような体のテンション、体をどのように使えば走り切れるかという研究を徹底的にやりました。

―伊藤さんの長年の経験を持ってしても、まだまだ研究が必要なんですね。

伊藤選手「そうですね、ほんまにね...学者になった方がよかったかな...(笑)、論文書きますわ(笑)。
競技用のマシンも進化しますし、グローブも進化しますし、また、陸上競技場の状態も変わるし、僕らにとっては『これでいい』っていうのは一切ないんです。その中で、いちばん進化が遅いのが人間の能力だと思うので、常に追いかけて追いかけて...」

2008年 北京パラリンピック 400mで金メダル
2012年 ロンドンパラリンピック 400mで銀メダル この大会のあと引退

■障害が進行しても、「きのうの自分を超える」ことはできる

インタビューの中で「毎日毎日自分を少しずつ超えるというテーマは変わらない」という言葉を、繰り返し話していた伊藤選手。

それは、「やろう!」と思ってもなかなかできることではないのでは、と思いました。

伊藤選手「僕は、とにかく精神的な部分でも、技術的な部分でも何でもいいんですけれど、『きのうより何か、今日は良かった』という自分を見つけるまで練習を止めないんです。そうしないと応援してくれる皆さんに申し訳が立たないし、チームの皆さんに何か引け目を感じるしと思ってのことですけどね。
例えば、きのう走りながら25分くらいのところで、もう止めようと思ったのが、あれ?今日なかったな...と思えば、もう"きのうを超えてる"んですよ。そんな小さなことなんです。
自分を超えることは、一気にタイムを縮めるとかそういうことではなくて、きのう弱かった自分を超えた瞬間があるという"気づき"。そういった気づきの積み重ねというのを僕は大事にしているので、そんな難しいことではないですよ(笑)」

そういう「気づき」を大切にすることは、アスリートだけでなく、私たちもできることかもしれません。

その一方で、免疫系に異常を起こす進行性の難病、多発性硬化症がある伊藤選手。
その病状も進行していました。

伊藤選手「実は去年(2020年)の11月12日に、4年ぶりぐらいに病気が再発しまして、その治療に1か月ほどかかってから、左手が以前よりだいぶ悪くなりました。今回は左腕の力が抜けて、腰痛が出て、嚥下(えんげ)障害で少し喋りにくかったです。嚥下障害と腰痛は早期治療で何とか抑え込むことが出来たんですけど、左腕の感覚は、たぶんこのまま一生、以前より悪い状態でいくしかないのかなって。まあ、固定してしまったという感じです。その分だけ少し走りにも影響が出てますけれども、全体的な走りとしては大丈夫だろうなと考えています」

―今すごいことをサラリとおっしゃいましたね...

伊藤選手「こればっかりはどうしようもない。僕の病気は進行性なので、多少悪くなるのは計算の上に入ってますから、このレベルで止まってくれて良かったなと。逆に早く対処してくれたドクターの皆さんに感謝してます」

―病気と付き合って生きてらっしゃるんですね。

伊藤選手「そうですね、絶対治らない病気ですから、あきらめて付き合っていくしかない。ぱ~んと離婚届を叩きつけられるような状態なら、とっとと突きつけますけども、こればかりは体の中におるやつですからね、上手に付き合うしかなさそうです」

―そういう中で、きのうの自分を超えるとか、パリでひとつ花火打ち上げるか、と考えることができるバイタリティーはどこから生まれたのでしょうか?

伊藤選手「会社経営の経験かもしれませんね。この病気になる30代まで15年間会社を経営していたのですが、良いときもあれば、金銭的な部分には余裕があっても、経営的にメンタルの部分で厳しい部分が日々出てくることもあったんです。そういう時に、経営陣や戦ってくれるスタッフの皆が一丸となって解決した"事の大きさ"をありがたく感じています。ともすると、アスリートは『自分を支えてくれている人たち』という表現をしますけれども、僕は『共に戦っているうちの一人』という表現になるのは、会社経営から来るのかなと思いますね」

―伊藤選手は50年以上の人生の、"全て"で戦っているんですね。

伊藤選手「ありがとうございます。そのように言っていただければ年を取ったかいがありますね(笑)。その通りだと思います!」

最後に、3大会経験してきた伊藤選手に、パラリンピックの持つ力について、伺いました。

伊藤選手「オリンピックもパラリンピックも、昨今、特に注目を集めている「共生社会」というドアの前に立つことと同じだと思うんですね。ぼくら障害者や、今後は高齢者も含まれると思いますが、どうしても消費社会においては"弱者"になる方が圧倒的に多いと思うんですよ。それがこの国のシステムですから。
そのシステムの中で、共に生きる共生社会の実現に向けて、パラリンピックの開催はそのドアの前に立つ絶好のチャンスだと思うんですね。そのドアをノックできるか、思い切ってノブをまわしてみるか。お互い、障害者側も健常者側も、また一般社会も高齢者社会も障害者社会も、全部含めてみんながドアの前に立てるということを、僕はこれまでのパラリンピックで実感してるんですね。
そして、一生懸命やっている姿というのが美しいと僕は思いたいんですよ。今、コロナ禍で看護師の皆さんであったり、ドクターの皆さんであったり、寝る間も惜しんで闘っている最前線の方々から比べれば、僕らなんて本当にぜいたくな暮らしをさせて頂いているわけです。(パラリンピックに出場する)僕たちの生き方や言動は、ある意味真剣でなければいけない、決してうそのない世界の中で発信していかなければならないと思いますから、まだまだ若輩ですけど、一生懸命やらせていただきたいと思っています」

伊藤選手自身、これまでの人生で波乱万丈な経験をされてきたからこそ、重みのある言葉を発信できるのだと思いました。

57歳という年齢、進行する持病・・・。

それでもなお、前に進めるのは、何度も壁にぶつかっては、時に乗り越え、時に受け入れてきた人生があるから。
「チーム」の存在や、「きのうの自分を超える」という目標があるから。

今回のインタビューをしたのは1月8日...そこからも状況は刻一刻と変化しています。

伊藤選手の"生き方"を真似することはできなくても、"考え方"を真似することは、私たちにもできるのではないかと思います。
1人1人が「気づき」を大切にできたら、伊藤選手のいう"ドア"を開くことができるのではないでしょうか―

伊藤智也(いとう・ともや)|19歳の時に起業し、コンピューター関係の会社を200人規模にまでに成長させた。しかし34歳の時に免疫系に異常を起こす進行性の難病、多発性硬化症を発症。四肢や喉がまひし、両眼の視力も失い、半年間寝たきりに。その後、右目と喉が回復し、車いすでの生活が始まる。入院して1年後に陸上と出会い、41歳でアテネパラリンピックに初出場。北京大会で金メダル2つ、ロンドン大会で銀メダル1つを獲得したのち、引退。5年のブランクを経て、2017年に復帰する。2019年の世界選手権で東京大会の代表に内定。

(この記事は、2021年1月27日、NHK 東京2020パラリンピックサイト内の「後藤・千葉・三上の奮闘日記」に掲載されたものです。)

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