リレーに懸けた桐生の思いは報われず
悔しさを晴らすチャンスはきっと訪れる

桐生のもとにバトンは渡らず、東京五輪を終えた

仲間を励ます第3走者の桐生(写真右から2番目)。肝心のバトンは、いつまで待ってもやって来なかった 仲間を励ます第3走者の桐生(写真右から2番目)。肝心のバトンは、いつまで待ってもやって来なかった【写真は共同】

 誰よりも4×100メートルリレーに懸けていた桐生祥秀(日本生命)は、今や遅しと自分の出番を待ち望んでいた。「心は冷静だけど、燃え上がるような走りをしたい」。そう決勝前日の4日に話していた通り、2走の山縣亮太(セイコー)がいつチェックマークを越えるか、心を研ぎ澄まして待ち続けた。しかし、肝心のバトンは、いつまで待っても桐生のもとにはやって来なかった。  予選は1組3位となり、着順で通過したものの、38秒16は全チーム中9番目のタイム。仮に2組に入っていたとすれば、38秒10で予選落ちしたアメリカに届かず、決勝の舞台を踏むことさえできなかったことになる。余裕を持って渡し、ミスのリスクを減らす「安全バトン」を全区間で心がけていたとはいえ、このままでは到底金メダルには届かない。チームを指揮する土江寛裕コーチは、こう決断した。「金メダルか失格か、ギリギリのラインを攻めていく」。

 1走を務める多田修平(住友電工)の飛び出しは抜群だった。土江コーチが「2017年の世界陸上(ロンドン)でもアウトレーンでいい走りをしていたので、スタートから走れるだろうと思っていました」という予測通り、最外の9レーンをかっ飛ばし、山縣のもとに向かっていく。だが、練習から一度もミスがなかった2人の間に誤算が生じた。4レーンだった予選ではカーブのきつさも考慮し、半足と少し詰めていた足長(次走者がスタートを切る目安)を、決勝では基本の位置に戻していた。その半足わずかの距離があだとなり、多田のバトンが山縣の左手に届かない。そのままテイクオーバーゾーンを越え、一度もバトンを渡すことがなかった日本は、途中棄権という形で戦いを終えた。  その様子を呆然(ぼうぜん)と見つめた桐生は、同じく走る機会のなかったアンカーの小池祐貴(住友電工)と合流。打ちひしがれる多田と山縣の肩を抱き、懸命に慰めた。ただ、やはり無念の思いは拭えない。「僕がもっと予選から早く走っていれば、多田と山縣さんに余裕を持って走ってもらえた」。自らも責任を背負い、号泣した。

土江コーチも絶大な信頼を置いていた、桐生の3走

土江寛裕コーチ「桐生の3走は8年かけて育ててきた。自信がありました」 土江寛裕コーチ「桐生の3走は8年かけて育ててきた。自信がありました」【写真は共同】

 桐生がこの決勝にたどり着くまでの道のりは険しかった。3位以内に入れば100メートルの五輪内定を得られた今年6月の日本選手権で右アキレス腱痛に襲われ、10秒28(追い風0.2メートル)の5着。日本人で初めて9秒台の壁を破った男が、100メートル個人に挑むチャンスを失った。「この数年間はいろいろあったけど、ここで一区切りかな」と、この時点で一度、気持ちに整理をつけていた。  だが、日本のリレーは桐生を必要としていた。16年のリオデジャネイロ五輪(銀メダル)、17年、19年の世界陸上(銅メダル)と、近年躍進を続けてきたチームの中で、唯一の皆勤賞が桐生である。より正確に言えば、「桐生の3走」だ。どんな相手とでもつないでみせる柔軟なバトン合わせと、レーンの位置によって体の傾きを調整し、無駄のない走りで進むコーナーワーク。東洋大時代からタッグを組む土江コーチも「桐生の3走は8年かけて育ててきた。自信がありました」と太鼓判を押すように、若手の台頭や故障によってこの5年でさまざまなメンバーが出場する中、桐生だけはそのポジションを守り続けてきた。  7月9日に山梨で始まった合宿初日に、毅然(きぜん)とした表情で語った。「(近年の)世陸や五輪のメダルを全部持っているのは僕しかいない。リレーに選んでいただいたので、最高のパフォーマンスをするのが自分の仕事です」。当然、個人で代表を逃した無念が消えたわけではない。でも、「僕は悔しさを引きずるためにここに呼ばれたわけじゃない」。そう言い切った25歳は、まさしく仕事人の風格を漂わせていた。

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