チームの絆をより強固にした早朝練習
金メダルの記憶 アテネ体操団体(1)

 過去、日本は多くの五輪金メダリストを輩出してきた。彼らはいかにして望むべく最高の結果を手に入れたのか。2020年の東京五輪まで2年を切った今、あらためてその記憶を呼び起こし、後世に語り継いでいく。今回は04年に行われたアテネ五輪の体操男子団体総合で28年ぶりの王座奪還を果たした日本チームの物語を全5回でお届けする。

アテネ五輪の体操男子団体総合で日本は28年ぶりの金メダルを獲得した
アテネ五輪の体操男子団体総合で日本は28年ぶりの金メダルを獲得した【写真:ロイター/アフロ】

 04年8月16日、アテネ五輪の体操男子団体総合決勝は日本、ルーマニア、米国による三つ巴の争いが展開されていた。最終種目である鉄棒を残し、首位ルーマニアと2位日本の点差は0.063点。逆転での金メダルは米田功、鹿島丈博、冨田洋之の演技に託された。
 キャプテンを務めていた米田は、その時点で日本が何位にいるのか、直前にルーマニアや米国がどのような演技をしたのか全く把握していなかった。日本は大きなミスをしていないから、上位にはいるだろう。ただ、最後の鉄棒を控え、ルーマニアや米国の演技を見ないように壁の後ろに隠れて、不安と戦いながら集中力を高めていた。
 いざ演技が始まるといつも通り体は動いた。これまでも多くのプレッシャーは経験している。だから棒を握れば自然と体は反応してくれる。それだけの練習を積んできた。得点は9.787点。トップバッターとしての責務を果たし、後の2人につなげた。

 自らの演技を終えた米田は、チームのメンバーである水鳥寿思と中野大輔に状況を聞いた。
「今、どんな感じ?」
 2人は興奮した面持ちでこう答えた。
「このままいったら優勝しますよ」
「マジで?」
 米田はこのとき初めて日本が限りなく金メダルに近づいていることを知った。首位に立っていたルーマニア、3位だった米国は鉄棒でミスが出て、思うように得点を伸ばせていなかったのだ。残り2人は鉄棒を得意としていた鹿島と冨田。米田は「あいつらなら大丈夫だ」と思った。

 その期待通り、鹿島は9.825点、さらに最終演技者の冨田は9.850点と高得点をマークした。冨田の着地が決まった瞬間、米田は「本当に金メダルを取れたのか」信じられない気持ちだった。他の選手や周りのスタッフは喜んでいたが、電光掲示板に映し出されるまでは、実感が湧いてこなかった。28年ぶりとなる団体総合での金メダルは、それだけ遠い道のりだった。

米田功は金メダル獲得が決まってからも、なかなか実感が湧かなかったという
米田功は金メダル獲得が決まってからも、なかなか実感が湧かなかったという【スポーツナビ】

 かつては多くの金メダリストを輩出し、日本のお家芸であった男子体操も1996年のアトランタ五輪、2000年のシドニー五輪と2大会連続で個人、団体ともにメダルなしに終わっていた。米田にとっては、大学3年生だった98年NHK杯の個人総合で優勝を飾り、シドニー五輪を現実的に捉えていたこともあって、出場できなかった悔しさは自らを変えるきっかけにもなった。

 体操を始めたころから「天才」と言われていた米田の中にはある価値観があった。本人いわく、それは「練習しないで強くなることが格好良い」というもの。
「天才というフレーズは僕の中で『格好良い』ものだったんです。じゃあ、天才って何だ? そのときの僕の捉え方は、普段やっていないのに本番で結果を出せるということだった。人前で頑張ることは『格好悪い』。練習して強くなるのは当たり前なんだから、練習しないで強くなることの方がすごいと思っていた。その時点でいろいろと間違っているんですけれど、当時はそれが『格好良い』と思っていたんです」

 しかし、シドニー五輪のメンバーから外れたとき、米田は「自分が一番格好悪い」と感じた。家族や周囲は米田をサポートすることで、犠牲にしてきたこともあったはず。にもかかわらず自分は結果を出せなかった。練習を積み重ね、自らの力を最大限発揮した上での落選なら仕方ないが、練習もそこそこに結果を出そうとして、それを果たせなかったというのは自分の甘さ以外の何物でもなかった。
 そこから米田は「何が『格好良い』のか」を考えた。お手本はすぐそばにいた。それはシドニー五輪に出場し、当時共に練習していた笠松昭宏や、順天堂大学の先輩でもあった斎藤良宏の姿だった。彼らはとにかくこつこつと地道な練習を積み重ねながら、結果を出していた。
「自分が目指す『格好良い』はあれだ。人前でも頑張って、五輪に向けて一生懸命真っ直ぐに進んでいくことが格好良いんだ」

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