東京オリンピック・パラリンピック、聖火リレー延期後の日程を更新しました(9/30)。聖火リレーの市区町村ごとの日程やルートについては、正式発表後に更新します。

強さを支えた王者としての振る舞い
金メダルの記憶 柔道・野村忠宏(3)

アトランタ五輪翌年の世界選手権も制し、野村忠宏(右)は名実ともに男子60kg級の頂点に立った アトランタ五輪翌年の世界選手権も制し、野村忠宏(右)は名実ともに男子60kg級の頂点に立った【写真:ロイター/アフロ】

 1996年のアトランタ五輪で金メダルを獲得した野村忠宏は、次の目標を翌年の世界選手権優勝に定めていた。柔道界で本当のチャンピオンとして認められるには4年に1回の五輪と、当時2年に1回の世界選手権で両方優勝することが必要だ。 「五輪はよくやった。ただお前はまだ世界選手権を取っていないんだから気を抜くな」  天理大学で指導を受けていた細川伸二からはそう言われていた。野村自身も世界選手権に出場したことがなかったため、五輪後もモチベーションを落とすことなく練習に励み、国内外の大会ですべて優勝。最終選考会となった97年の全日本選抜柔道体重別選手権でも2連覇を果たし、代表の座を勝ち取った。  パリでの世界選手権は五輪金メダリストの強さを遺憾なく発揮して、こちらも優勝。前年の五輪に続き、世界選手権も制したことで男子60kg級の真のチャンピオンとして、頂点に立つこととなった。  2000年のシドニー五輪で2連覇を――。その挑戦に向けて順調な歩みを刻んでいるように思われたが、ここから野村は苦難を味わうことになる。  まず目標としていたタイトルを両方勝ち取ったことでモチベーションが落ちた。そこにケガと当時通っていた奈良教育大大学院の修士論文が重なり、試合で思うような結果を残せなくなってしまったのだ。大学4年時にアトランタ五輪を制した野村は実業団で競技を続けることを希望していたが、どこからも話が来ず、周囲の勧めもあって大学院に進学した。しかし教育大だったこともあり、代表の遠征時なども事情は考慮されず、競技と研究という二足のわらじを履いていた。疲労やケガが重なったことですべてが嫌になり、気持ちの整理をつけるのが難しい時期もあった。  ただ「アトランタ五輪で味わった感動を、シドニー五輪でもう1回味わいたい」という思いも当然ながらあった。 「うじうじばかりしていられない。覚悟を決めてもう1度強い自分を作っていかなければいけないな」

所属先であるミキハウスの木村皓一社長(右)に、野村は幾度となく背中を押された 所属先であるミキハウスの木村皓一社長(右)に、野村は幾度となく背中を押された【写真:長田洋平/アフロスポーツ】

 大学院を卒業する99年、ミキハウスに就職が決まったことは野村にとっても転機となった。これからは柔道で飯を食べていく。企業名を背負うということは、結果に対しての責任も伴ってくる。気持ちを新たにした野村だが、入社後すぐに行われた4月の全日本選抜柔道体重別選手権で優勝を逃し、世界選手権の出場権を失ってしまう。いきなりのつまづきに、自分をスカウトしてくれたミキハウスに対して申し訳ない気持ちでいっぱいになった。  野村は謝罪するために、木村皓一社長の元を訪れた。 「期待してくれて自分をミキハウスに誘ってくれたのに、国内で負けて世界選手権の代表になれず本当に申し訳ありませんでした」  どんな言葉も甘んじて受け入れるつもりだったが、野村の想像に反して木村は笑顔を浮かべていた。 「野村君の目標は何や?」 「僕の1番の目標はシドニー五輪で金メダルを取って2連覇することです」 「その目標があるんならええやないか。世界選手権は1回取っているんだし、君がシドニー五輪で自分の夢を達成するために何をしなければいけないか。それだけを考えなさい」  木村はさらに続けた。 「世界選手権に出られないからと言って謝ることはないし、会社のために試合をする必要はない。自分自身のために戦ったらいいし、自分の夢のために頑張りなさい」  野村は木村の話を聞きながら、すごく楽な気持ちになった。同時にこう言ってくれる社長に金メダルを見せてあげたいと思った。当時、ミキハウス所属のアスリートで五輪の金メダルを獲得した選手はまだいなかった。自分がその最初の選手になろう。野村は自らに固く誓った。

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