
1994年の全日本学生体重別選手権を制した野村忠宏は、力をメキメキとつけていった。翌年、大学3年生になると海外の試合にも派遣されるようになり、ドイツ国際では優勝を飾る。もっとも、そのころはまだ確たる強さを備えていたわけではなく、勝ったり負けたりを繰り返すなど、成績は安定していなかった。実際、五輪代表の選考レースが佳境となった95年11月の講道館杯全日本柔道体重別選手権大会が終わった時点で、野村は60kg級で3番手の位置付けだった。 柔道における五輪代表の選考方法は、一発勝負ではなくこれまでの実績も重視される。最終選考会は春に行われる全日本選抜柔道体重別選手権だが、そこで優勝したとしても選ばれる保障はない。各階級で1枠しかない出場権を得るには国内外でいかに安定して結果を残すかが重要で、五輪前年の11月時点で3番手ということは、厳しい状況を表していた。 「2000年のシドニー五輪に出られたらいいかな」 野村自身も翌年のアトランタ五輪をさほど意識していなかった。 しかし年が明けて、選考レースをリードしていた候補選手たちが海外の大会で早期敗退を喫した。一方、ややレベルの落ちるチェコ国際に派遣されていた野村はそこで見事に優勝を飾る。もし最終選考となる体重別選手権を良い内容で制すことができれば、アトランタ五輪に出場できるかもしれない。そのとき初めて野村は五輪を現実のものとして意識した。 「このチャンスに懸けてみるか」 期待を胸に大会に臨んだ野村は、準決勝で徳野和彦、決勝で園田隆二といった本命視されていた候補選手を次々に破り優勝した。徳野は高校のときのインターハイで苦杯をなめさせられた相手。園田は93年の世界選手権で金メダルを獲得した選手だ。その2人を破っての優勝は野村にとっても価値あることだった。そして試合内容、結果ともに評価された野村は五輪代表の座を勝ち取ることになった。 五輪に出場できることになり、夢見心地だった野村だが、すぐに不安が襲ってきた。世界レベルでの実績もない大学4年生になったばかりの自分が日の丸を背負って、日本代表として五輪で戦う。 「本当に俺でいいのか。俺よりも園田先輩の方がふさわしいんじゃないか」 五輪における柔道は特別なものがある。日本発祥の競技であるから、代表選手は常に金メダルが期待され、そのプレッシャーは想像を絶する。野村はそれにどう対処していいか分からなかった。