野口啓代、鮮やかな“一撃”で見せた涙
ボルダリングW杯21勝目が示した充実感

強さを見せつけた日本女子のエース

 最後のホールド(突起物)を両手でしっかりと握って優勝を決めたその瞬間、野口啓代(TEAM au)は、右のこぶしで壁を三度たたきつけて天を仰いだ。東京・八王子市で2、3日に行われたスポーツクライミングのボルダリングワールドカップ(W杯)第5戦。目標に掲げていた大会を制した日本女子のエースは、目を潤ませながら喜びをかみ締めた。

「シーズンの初めからずっと、八王子に向けて気持ちも体も作ってきていたので、(最終課題をクリアした瞬間は)開放された気持ちでした」

地元・日本開催のW杯で優勝した野口啓代。最後までもつれた激戦を制した瞬間、喜びと安どの入り混じる表情を浮かべた
地元・日本開催のW杯で優勝した野口啓代。最後までもつれた激戦を制した瞬間、喜びと安どの入り混じる表情を浮かべた【写真は共同】

 今大会の女子の主役は、まぎれもなく野口だった。2日の予選を難なく通過すると、翌日の準決勝は、出場20人の中でただ1人、4つすべての課題(コース)を攻略。しかもすべて1度目のトライで成功させた。ボルダリングでは課題を一発でクリアすることを「一撃」と呼ぶが、この準決勝はまさに“一撃ショー”。他の選手が苦戦を強いられていたこともあり、野口の安定感がさらに際立った。

 6人で争われた決勝でも、集中力は途切れなかった。トップで迎えた最終課題、直前に試技したW杯ランキング1位の野中生萌(TEAM au)が1トライで完登し逆転。重圧がのし掛かったが、慎重に壁に取り付くと、「あのトライで登れなかったら登れない。『絶対に離さない』」と、揺れる体を右手1本で支えながら、左手をぐいっとトップホールド(ゴール地点)にかけた。W杯通算21勝目を決める鮮やかな“一撃返し”に、観客からは割れんばかりの拍手喝采が沸き起こった。

スタイルに合わせて自分を変えて成長する

準優勝した野中生萌(左)や伊藤ふたばら、若手の台頭を感じながらも、第一線で活躍し続けている
準優勝した野中生萌(左)や伊藤ふたばら、若手の台頭を感じながらも、第一線で活躍し続けている【写真は共同】

 W杯年間王者に過去4度(2009年、10年、14年、15年)も輝く実力者も、この2年は不調にあえぎ、優勝からも遠ざかっていた。

「昨年のリザルトが安定しなかったり優勝できなかった原因は1つではなかったので、気になるところを1つずつ埋めていった」と野口。この冬のオフシーズンは苦手とするスラブ(傾斜が90度未満の緩傾斜壁)の練習を重ね、東京五輪と同じ3種目の複合(ボルダリング、リード、スピード)で争う9月の世界選手権(オーストリア・インスブルック)を見据えてリードやスピードの練習にも注力。自らの課題を1つずつつぶしていった。

 それでも残った不安は、2月の2年ぶりとなるジャパンカップ制覇、5月のW杯第3、4戦の2連勝と結果を重ねるごとに払しょくされた。「どんどん自信が深まり、手ごたえを感じてきた」と、自分自身の成長を実感しているという。

 大会直前の5月30日に29歳になった。野中や今大会で自身初のW杯決勝進出を果たした16歳の伊藤ふたば(TEAM au)ら若手が台頭し、ただでさえ厳しい勝ち残り競争にある中で、落ちかけていたパフォーマンスを盛り返すのは並大抵のことではない。日本代表の安井博志ヘッドコーチも、現在の野口は心身ともに「今は素晴らしく充実した状態」とほめたたえた上で、強さの1つに彼女の高い適応力を躍進の要因に挙げる。

「彼女は新しいことに対応する能力に非常に長けています。ルールが変わったり、ボルダリングの課題の傾向が変わっても、新しいものにすぐに対応する。その姿勢をずっと、長年崩さない。だから、彼女のスタイルがあるというよりも、新しいスタイルに合わせて彼女が変化していくことで、成長してきています。本当につらい2シーズンだったと思うんですけれど、今シーズンはそういった意味では、この2シーズン苦労した部分がようやく形として見えるようになったと思います」

W杯最多勝利よりも東京五輪を

視線は2020年の東京五輪へ。今後はリードとスピードをさらに磨きたいと話す
視線は2020年の東京五輪へ。今後はリードとスピードをさらに磨きたいと話す【写真は共同】

 くしくも男子では30歳のベテラン、ガブリエレ・モロニ(イタリア)が優勝した。“体を使ったチェス”と称されるように、ボルダリングでは心身の強さだけでなく、課題攻略のための洞察力や分析力、判断力なども必要とされ、年齢や経験を重ねて得られる要素も多い。安井ヘッドコーチは「純粋に体を鍛えたから結果が出るだけではなくて、精神面や技術面、試合展開を含めたいろいろな要素が必要なのがこのクライミングの面白さ。どの年齢が一番いいのかというのは本当に人それぞれ」と説明する。こうした競技特性が、野口のようなベテランが一線で活躍できる背景にある。

「1回で登れるというのは、フィジカル、集中力や経験値、いろいろなものが必要。1回で登り切る技術はすごく重要だと思っているし、それがうまくいかない日は調子が悪いし体がちょっとバラバラに感じます」

 野口は一撃の価値を聞かれて、こう答えた。この言葉を借りれば、決勝の最も緊迫した場面を1度の挑戦で乗り越えられたのは、そうしたあらゆる要素が全て高い次元でそろっていることの表れと言ってもいい。

 次戦の第6戦(6月8、9日/米国・ベイル)では男女通じて史上最多のW杯22勝の大記録が懸かるが、「それよりも、次の世界選手権に向けて早くリードとスピードをトレーニングしたい。2年後の東京五輪に向けて、もっともっと3種目でボルダリングと同じくらい安定した選手になりたい」と言い切った。全てで強さを発揮する“最強クライマー”へ、視線はすでに2年先の大舞台へと向いている。

(取材・文:小野寺彩乃/スポーツナビ)

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